昭和41年03月16日 春季総会



 有難うございます。まあいよいよこれが最後の(笑)・・・。今、渡辺先生の話が出ましたが、時たま、深刻な問題に取り組んでおられます。それが、もう本当に先生助けてください、と言うてから泣かれるです。それで私はもう、今言うごと、あなた方があんまり分かりすぎてっね、もうほかんこと、人のことなら十分、あの、どげんでもあんた方言うてあげれるだけのもの、内容持っておられるのに、そりゃ自分のことになると分からんねって言うて、いろいろ秋永先生ごつも話した。
 あの人どんがやっぱそうですもんね。だからあまりにね、その理解力の強い人、は、その理解力と実際が伴わないから、そういうバランスが崩れるんですよね。ですからこの人ばっかりは毎日毎日来て分かるとは分かりよるじゃろうか、と言うような人はですね、確かにおかげを頂くですね。けれどもこれはどこまでもやはりおかげです。本当に信心が身についていきよらんです。
 というのは渡辺先生あたりに、秋永先生が説明したような生き方でいきよるなら、もう絶対こんもうつどつどにそれが力になっていくですね。私その事でですね、これはまあ、赤裸々に、私皆さんに聞いていただいて、私の信心を言わばさらけ出すわけで御座いますけれども、これは三代金光様が終戦直後に、ある婦人の方がお参りさせて頂いて、熱心に日参されて、金光様の許にお願をなさってご主人の引き揚げ者です。
 一人で帰ってきてからご主人が病身であった為に信心された。でとうとう亡くなられたんですね。で金光様を毎日その、それをお取り次ぎして下さっておった。そして、亡くなるときのお取次ぎをなさった時に、あの金光様が、あの、私の信心が足りませんでした、と仰ったそうですね。ですからあの、金光様勿体ないことである、こげなことじゃございません、て言うてその、もう泣き伏してから、その亡くなったということに対する悲しみが消えた、という話を聴いたことがございます。
 金光様がね、この私の、あの、お願いが足りませんでしたと仰ったそうです。ですからこれは、私皆さんが、なら渡辺先生あたりのそうした今の、難儀に直面しておられるんです。これは、最近あの、嫁を迎えておられる、その嫁さんの問題なんですよね。ですから、それがその、このことがもう、本当に先生おおた子に教えられると。我情我欲が離れるということは、相手の気持になることだということ昔から、教えられてから、ほんにそうだと思うてこれを開けておったと言うんですよ。
 そしたらちょうど、その事が開けたら問題ないことなんです。けれどもやはり実際の問題になると、本とにあの、御結界前に出て先生助けてください、と泣きなさるです。それで私、その前の晩の、あの御理解の中にですね、もうこの世では、仕方がないのだと、そういう難儀な基というのは、自分が作ってきたのだから。これは仕方のないことだと、と言うてそれを受けていく、そういう思い変えをしていくということも信心だけどね、お道の信心はそんなものではないと。
 お道の信心は難、そのままそれが、おかげだとこう分かるということ。たから、今のその問題がおかげだと分かるということ。だからその、分かるまでに、今の秋永先生じゃないけれども、繰り返し、座らせていただいておるうちに、ほんとの力になってくるんだと。というて、その例を私があの、大阪のある教会の、先生が、あの、火災で教会が丸焼けになった。それでご本部に、そのお礼お届けに出られました時にですね、そんときの教会の何とかって言う教会の、先生がです。
 その、一つの句をしめされまして、励まされたということがございました。それはあの、山焼けてまた、「山焼けて、またもえいづる蕨かな」という、句がございました。それを聞かれて非常に元気付かれた。そのままさせていただいたら、渡辺先生はもう、今まで泣きよったつがいっぺんにですね、はぁ先生おかげ頂きましたち。そのことでしょうたい。もう、有難かったんですね。それでもう、一筆書いてくださいと言うから、私短冊に書いて、もう、押し頂いてから、これでしたと。
 だから金光様の御信心はそれなんですよね。こう言う焼けなければならないような元は自分が作っとっただから仕方がない、と言うただけではもうお道の信心はつまらん、ち・・ね。もうこれのおかげで焼けぶとりのこれによって、もう一段力を受けよう。もっと立派なものを体得させて頂くおかげを頂こうというのがお道の信心だという事。だからそれには簡単ですけどやっぱ難しいですもんね。焼けた時に喜べれるという心なのですから。けれどもそれは信心させて頂きよると出来ん事はないですもんね。
 私どもが、もうこれは、その当時皆が思うたことは、私の方の酒屋という商売を、取り除かれたらもう致命的なものだったんですよ。家族中の。そのときに確かに私はあの、これは神様がまだ大きな商売させようと思いなさるな、とこれが一番実感でしたですから。ほんとに。これは稽古です。できんことはないです。ね、ですからそういう頂き方ができるということ。それで、そういう有難いみ教えをいただいてから、短冊を押し戴いて、それこそ帰られたけれども。
 かえられるうちに、またいろいろ難儀を感じられて、先生方がいったら、先生方といろいろ話された、ということなんです。そういうことなんですけれどもね、私その事を渡辺先生帰られてから、すぐそのう神様にお届けさせていただきよりましたらですね、大黒様が赤ん坊をおんぶしてござる。そしてから持ってござる打ちでの小槌をですね、こうやってあの、あの何て言うですか、ガランガランいうのがあるでしょうが。
 あれなんていうでしょう。・・ふりこですかふりこの何か、昔は赤ちゃんにこうやってね、ガラガラいわせてから、私がこう、私じゃない、大黒様がですよ、大黒様が、こう、こうこうしよんなさるとこを頂きましたんです。もうほんとに、私は何か知らんけど、何かもうほんとにこう、突き落とされるような思いがいたしましたんですよね。お前が力がなくなっておるぞ、ということなんですよこれは。ね、
 それで打ち出の小槌ということはですね、おかげがその場で、その場で打ち出せるような、おかげも頂けれるんだということですよ。ところが皆さんここに私はほんに、悲しいまでにその事を思い続けておるわけで御座いますけれども、皆さんここのところを一つ分かっていただきたいと思うんです。こう申しますと私があのまた、そこから逃れようとしよるのじゃないです。もう金光様ですら私がお願いが足りませんでした、と仰ったけれどです、私にはそれを言うだけの信心がまだないと言うことです。
 ならこの方だけでも私今先生の話聴いてから、これは私が皆さんに一つほんとに、聞いてもらわなければならん、と思ったわけなんです。もうそんなことおかしくて言えないことなんです。実を言うたら。ね、お前がね例えばそういう難儀な問題を持ってきてもです、もう帰ったらたちどころにおかげ頂いておったというような、おかげにも出来んことはないのだと、お前の力さえ出来たら。打ち出せんことはないのだけれども、お前は子供を、言わばこうやって、慰めるだけの力しか今ないとおっしゃる。
 ね、もう、よかよかっち言うてから慰めるのと同じことです。それを、言うならばです、金光様ならば、私のお願いが足りませんでした、私にそんな悲しい問題が起こってくるということもです、私のお願いが足りませんでした、と言うことになるのです。そこでです、そんならけれども、そういうようなことは実際言うたら、私が一生かかっても、できないことだろうということです。なら、たちどころに、その打ち出の小槌を持ってですね、打ち出していく。
 けれどもそこに私は神様の願い悲願があると思うんですよね。そういう例えば力のない取次ぎ者に皆さんがご縁を頂いておられる、そこに皆さんの力が頂けれる場というのが、生まれてくるんだということ。言わば壮大にですおかげを受けると言うことは、力は生まれはしませんということ。ですからその秋永先生が今言ってることも本当なんです。そこんところをやはりあの合掌して受けれる元気な心というのがですね。
 私はほんのこんな事は、昨日ばっかりは、昨日私ですら、赤裸々なんですけれどもね、こういうことは大体は、あんまりいけない、っていうわけですよね。あの、椛目はあんまり赤裸々すぎて。私はほんとにあの、皆さんに言うちゃでけんことでん言いよるとですよ。これは言わば私どものなんです。だから、信者には言うちゃでけんばってん、お前には言うて聞かせよるとぞと。
 お前の力がないけんばっかりぞと。ひもじいと言いよるとにです、ね、食べさせもきらずに、まあ、その、さあそれでシッカリ信心しなさいぐらい言うてから、慰めとるぐらいな、そんときに、一時は泣きやんどるけれども、ガラガラで。( ? )また泣きよるじゃないかということを、頂いておったから、秋永先生のそういった思い合わせてからですね。けれどもふんなら私が、例えばなら5年10年さかたんぼうったからと言うて、おそらくそういう力はまだまだできまいけれどもです、ね。
 けれどもなら、できんからと言うて、私このまま放任しとくわけにはいけないと。私もほんとに、まあこの程度の問題ならばです、その場で私が持ってやれれるだけの力を私も受けたい。そのくらいの事ならば、たちどころに、いわゆる打ち出の小槌から、取り出してから、おかげを渡してあげたいという願いを私も持たせていただきますけれども、その願いとです、皆さんが、それによって信心を頂いていこうとする願いとがです、やっぱり一つになって、火花を散らすようなものにならなきゃ駄目だ。
 ですから、ほんとにこう言う話しはです、例えばね、金光様ならいざ知らずだけれども、他の者なら言いきることじゃなかです。ほんとに、私が神様からそれをいただいたんです、その後に。お前が力がないから、ひもじいといよるのに与えもきらんじゃないか。ただ、ま一時我慢しとかんのと言うてから、言わば、慰めただけじゃないかと。もう帰ったら泣きよるぞということなんです。
 だからそこんところをです、もう一つ歯を食いしばって泣かんですむだけの信心を、皆さんが受けられたら、頂かれたら、これは皆さんの力になるものなんです。どうぞ私も、こういうような大きな御用をです、神様が私を通してやっぱ私を通してです。神様が先頭に立っておられるけれども、私を通してしておらえれるのも、それがスムーズにないということも、今の言うようなことからだと思うんですけれども。
 ここにやはりさっき、堤さんが言われたようにです、もうほんとにこれでよいかという、信心をさせてもろうてです、ね、このことも倍になったならば、私どもの信心も倍力にならなければ、駄目だということ。そこを神様の願いに応え奉って、信心を進めていこうというのであります。大祭を一月後に控えさせていただいてから、いよいよですね、そういうところにあのとにかく、親も足りないなら子も足りないのです。
 ね、その、足りない者同士ががです、力をこう、合わせおうたらです、そこから、いくらかましなものが、でてきやせんかと、いうような思いを持って一つ、信心を進めて頂きたい。どうぞ、これがほんとの一つの、締めくくりでございますから、いろんなことをどうぞその、これは金光様の、ならば、ね、ほんとに皆さんすいません、私の願いが足りませんもんじゃから、こういうがたがたになってしまいます、そういうことなんですよ。うん、けれども私はそう言いきらんのです。
 こう皆んなの前では言いきるけれども、あなたの前では言いきらんのですよ。だから私がこうやって、その皆さんのその皆んなの前でです、誰にいいよるじゃ分からんようにして言いよるわけなんです。私が打ち出してやれない。力を持たない。そしてただ慰めておるだけ。慰めておられるだけでも、有難い実を言うたら。ね、そんときだけでも胸がすきっとするおかげを頂いて、その信心に火がつき・・・、心の中に励みができただけでも、まあ有難いと思うてです、信心を進めていただきたいと思うのでございます。
   どうぞ。